2015年07月29日
情けは人の為ならず。
カオパンサーが迫って来た。
街のショッピングセンターなどに行けば、入り口付近は、カオパンサー用のお供え商品の特設会場になっていて、黄色と言うか山吹色の商品が山積みされている。
今回の記事は、本当は前回に引き続き「日本一時帰国旅行記」の最終イベントになった、八ヶ岳のリゾート宿泊の事を書こうと思っていた。
そしてそれを書くに当たって、昨年結婚し子供も生まれた弟が、普通車では定員オーバーな私たち親子と母を一緒に旅行に連れて行く為に、週末にプラスして月曜日まで休みを取ってくれ、わざわざ八ヶ岳まで連れて行ってくれたことを考えていたら、タイでは(少なくとも私の周囲のタイ人では)絶対あり得ないな〜と思い、この話題に話が逸れてしまったのである。
いつも日本に帰ると思うのだが、私たちの為に何の見返りも求めずに、(タイのド田舎に嫁いだ姉になど、見返りなんて期待出来ないと思われているとは思うが。)帰国の度に、貴重な時間を割いて、いろいろ面倒を見てくれる弟にとても感謝している。
それに引き換え、タイの夫の兄弟を始め、周囲の人々の「見返りを求めて当然」と言う態度には、いつもうんざりである。
しかし、このカオパンサーに当たってタイ人の思考回路などの事を考えていて思ったのだが、こういう見返りを求める考えは、このタイ人の仏教信仰に拠って、それが当然の事として教育されて来た結果なのであって、タイに来たばかりの頃、夫の兄が自分の用事のついでに、私たちもコラートまで乗せて行ってくれた時にも、「ガソリン代も出さない」と陰口を叩かれたり、何か頼むと無言で謝礼を請求して来たり…と言うのも仕方ない事なのかも知れない。
何しろ、タイの仏教の基本である「タムブン(徳を積む)」と言う行為は、「来世で自分が幸せになる為」だけの行為であり、平たく言えば「情けは人の為ならず」、純粋に見返りを求める行為なのだから。
それを、物心ついたときからほぼ強制的にやらされているので、タムブンはタイ人にとって、ごく日常のひとコマなのだが、その行為の意味はと言うとただひたすら「見返り」なのである。
今は小3になって私のアンチタイ仏教の影響か、あまりお寺に行かなくなったミックだが、少し前までは義姉に連れられて、寺の小僧のように通っていた頃があった。
その頃は、義姉の言葉を良く真似して、「いっぱいタムブンしなくちゃダメだよ。そうすれば来世でお金持ちになって幸せになれるから。」などと私に教えてくれたものだった。
つまり義姉たちが、足しげく朝に晩にお寺に通い、せっせとお寺に貢ぎ物を運んでいるのも、すべては来世の自分への投資に過ぎない。
「情けは人の為ならず」。
これはまさに、タイ人の為にあるような言葉だと思ってしまう。
朝早くからお坊さんに托鉢している姿は、一見すると絵はがきにもなるくらい美しいが、その真実は…。
タイ人のタムブン風景を見るたびに、思い出す言葉である。
街のショッピングセンターなどに行けば、入り口付近は、カオパンサー用のお供え商品の特設会場になっていて、黄色と言うか山吹色の商品が山積みされている。
今回の記事は、本当は前回に引き続き「日本一時帰国旅行記」の最終イベントになった、八ヶ岳のリゾート宿泊の事を書こうと思っていた。
そしてそれを書くに当たって、昨年結婚し子供も生まれた弟が、普通車では定員オーバーな私たち親子と母を一緒に旅行に連れて行く為に、週末にプラスして月曜日まで休みを取ってくれ、わざわざ八ヶ岳まで連れて行ってくれたことを考えていたら、タイでは(少なくとも私の周囲のタイ人では)絶対あり得ないな〜と思い、この話題に話が逸れてしまったのである。
いつも日本に帰ると思うのだが、私たちの為に何の見返りも求めずに、(タイのド田舎に嫁いだ姉になど、見返りなんて期待出来ないと思われているとは思うが。)帰国の度に、貴重な時間を割いて、いろいろ面倒を見てくれる弟にとても感謝している。
それに引き換え、タイの夫の兄弟を始め、周囲の人々の「見返りを求めて当然」と言う態度には、いつもうんざりである。
しかし、このカオパンサーに当たってタイ人の思考回路などの事を考えていて思ったのだが、こういう見返りを求める考えは、このタイ人の仏教信仰に拠って、それが当然の事として教育されて来た結果なのであって、タイに来たばかりの頃、夫の兄が自分の用事のついでに、私たちもコラートまで乗せて行ってくれた時にも、「ガソリン代も出さない」と陰口を叩かれたり、何か頼むと無言で謝礼を請求して来たり…と言うのも仕方ない事なのかも知れない。
何しろ、タイの仏教の基本である「タムブン(徳を積む)」と言う行為は、「来世で自分が幸せになる為」だけの行為であり、平たく言えば「情けは人の為ならず」、純粋に見返りを求める行為なのだから。
それを、物心ついたときからほぼ強制的にやらされているので、タムブンはタイ人にとって、ごく日常のひとコマなのだが、その行為の意味はと言うとただひたすら「見返り」なのである。
今は小3になって私のアンチタイ仏教の影響か、あまりお寺に行かなくなったミックだが、少し前までは義姉に連れられて、寺の小僧のように通っていた頃があった。
その頃は、義姉の言葉を良く真似して、「いっぱいタムブンしなくちゃダメだよ。そうすれば来世でお金持ちになって幸せになれるから。」などと私に教えてくれたものだった。
つまり義姉たちが、足しげく朝に晩にお寺に通い、せっせとお寺に貢ぎ物を運んでいるのも、すべては来世の自分への投資に過ぎない。
「情けは人の為ならず」。
これはまさに、タイ人の為にあるような言葉だと思ってしまう。
朝早くからお坊さんに托鉢している姿は、一見すると絵はがきにもなるくらい美しいが、その真実は…。
タイ人のタムブン風景を見るたびに、思い出す言葉である。