2015年07月04日
日本での日々〜その6〜富士サファリーパーク編
今回の富士山周辺旅行の一日目、富士急ハイランドを満喫した私たちは、富士急ハイランドに隣接しているオフィシャルホテルの『ハイランドリゾートホテル&スパ』に宿泊しました。
一日目を富士急ハイランドで遊び尽くした後は、隣接しているふじやま温泉の入園券も付いたプランだったので、温泉の他人との混浴を恥ずかしがって入らないと言う思春期の次男を残して、私と長女、それにミックも入ると言うので、3人で温泉に出掛けました。
ところが、今年で小3のミックは普段は私と一緒にシャワーを浴びたりしているのですが、身長も小学校高学年並みで、さすがに女湯に入るのは微妙だな…と思ったのですが、一応フロントで聞いたところ、「(こちらに)任せる」と言われてしまったのですが、当のミックが結局男湯に入る事を選んだので、男湯女湯の入り口のところで待ち合わせをして別れました。
正直、2年前に私と一緒に女湯に入ったことはあるものの、今回は次男も来なかったし、言葉もろくに分からないのに大丈夫なのかと心配したのですが、何とか先に出て来て、入り口にあったベンチに座ってだいぶ待っていたそうです。
その間、どこかの知らないおじさんが富士急ハイランドの景品か何からしいプラスチック製のゴミ箱を下さったそうで、その時に「お兄ちゃん、何とか…」と話し掛けて下さったそうですが、あいにくミックに覚えていられたのは「おにいちゃん」と言う単語だけで、私たちが出て来るなり、「メー、『おにいちゃん』ってどういう意味?「ピー」のこと?」と、すぐに聞いてきました。
その方は多分、小学生の男の子に対する呼びかけで「お兄ちゃん」と呼んだのだと思いますが、ミックが知っている日本語の語彙の中では「おにいちゃん」は「ピーチャーイ(兄)」でしかなかったので、自分の兄、つまり次男の事を聞かれ、そのおじさんがそのゴミ箱を次男にくれたのだと思ったそうです。
まあ、そういう小さな誤解は置いておいて、温泉で温まった後の楽しみは、やはり冷たい物でと言う事で、出口付近にあった自動販売機のアイスとビン牛乳を十分に堪能したミックと長女でした。
さて、翌日は動物園に行きたい、日本で犬が触りたいと言う長女の希望に応えて、富士急ハイランド旅行を泊まり掛けにして、翌日は富士サファリパークに出掛けました。
確か、私や長女、次男が最後に来たときは、長女も2歳くらい、次男に至ってはまだ歩く事も出来ない生後半年くらいの頃だったので、サファリパークが初めてのミックと、記憶の面ではそう変わりはしないので、皆まるで初めて来たように、車の窓から見えるサファリゾーンの動物たちにはしゃいでいました。
2日目はサファリパーク以外に予定も入れていなかったので、サファリゾーンの後は、ふれあいゾーンなどにも足を運び、ゆっくりと見る事が出来ました。
やはり、動物を触りたがっていただけあって、このふれあいコーナーの「ウサギを抱っこ」とか、「カンガルーの餌やり」とか、「リスザルの餌やり」などに大喜びで、何度もお小遣いでエサを買って上げていました。
その後、午後になると雲行きも怪しくなって来たのと、レンタカー店の閉店時間の夜8時までにレンタカーの返却を済ませたかったので、午後3時頃には富士サファリパークを後にして帰路に着きました。
サファリパークを出発した私は、ここに来て改めて『ナビくん』の有り難さを身に沁みて感じることになりました。
当たり前の事ですが、土地勘のない見ず知らずの土地では、地図がないと右も左も分かりません。
富士サファリパークを出発したのはいいけれど、麓に着いても、どこをどう行けば帰れるのか見当もつかないほどの方向音痴です。
私は富士サファリを出る時点で、とりあえずレンタカーを返却するトヨタレンタカーの店舗がある「西武秩父駅前」を目的地に設定したのですが、実際サファリパークを出てみると、またも頑固なナビくんが、首都高経由の帰路に誘導し始めました。
しかし、どうしても行きで来た雁坂峠経由で帰りたい私は、頭の固いナビくんをどうにかしようと、目的地を変更、経由地の『雁坂峠』まで案内させる事にしました。
すると、あれだけ頑固者だったナビくんが急に素直に「雁坂峠」までの道を案内し始めました。
なんとかナビくんを騙す事に成功した私は、ようやく元来た道を同じ道を運転出来るようになり、無事雁坂峠の麓まで到着。
その後は、また目的地を「西武秩父駅前」に変更し、ようやく峠を越えて夕方6時過ぎにはレンタカー店に辿り着く事が出来ました。
ナビを使ってみて思った事は、ナビの性能の問題なのかも知れないのですが、道を曲がったりするときに、音声や画面のタイミングがずれるのか、私が鈍いのか、一つ先の角で曲がってしまったり、逆に遅れて間借り損ねたり…ということが何度もありました。
まあ、誰かと競争をしているわけでもなかったので、もう一度Uターンしてやり直したりして何とか正しい道に戻って帰る事が出来ましたが…。
何はともあれ、今回の日本帰国中でこの旅行が、子供たちにはもちろん、私にとっても一番大変であり、思い出に残った出来事になったのは言うまでもありません。
この歳になって、こんな沢山の初体験を一度にする事になるとは思いませんでした。
平々凡々はイサーンでの生活から比べると、とても刺激的な2日間でした。
一日目を富士急ハイランドで遊び尽くした後は、隣接しているふじやま温泉の入園券も付いたプランだったので、温泉の他人との混浴を恥ずかしがって入らないと言う思春期の次男を残して、私と長女、それにミックも入ると言うので、3人で温泉に出掛けました。
ところが、今年で小3のミックは普段は私と一緒にシャワーを浴びたりしているのですが、身長も小学校高学年並みで、さすがに女湯に入るのは微妙だな…と思ったのですが、一応フロントで聞いたところ、「(こちらに)任せる」と言われてしまったのですが、当のミックが結局男湯に入る事を選んだので、男湯女湯の入り口のところで待ち合わせをして別れました。
正直、2年前に私と一緒に女湯に入ったことはあるものの、今回は次男も来なかったし、言葉もろくに分からないのに大丈夫なのかと心配したのですが、何とか先に出て来て、入り口にあったベンチに座ってだいぶ待っていたそうです。
その間、どこかの知らないおじさんが富士急ハイランドの景品か何からしいプラスチック製のゴミ箱を下さったそうで、その時に「お兄ちゃん、何とか…」と話し掛けて下さったそうですが、あいにくミックに覚えていられたのは「おにいちゃん」と言う単語だけで、私たちが出て来るなり、「メー、『おにいちゃん』ってどういう意味?「ピー」のこと?」と、すぐに聞いてきました。
その方は多分、小学生の男の子に対する呼びかけで「お兄ちゃん」と呼んだのだと思いますが、ミックが知っている日本語の語彙の中では「おにいちゃん」は「ピーチャーイ(兄)」でしかなかったので、自分の兄、つまり次男の事を聞かれ、そのおじさんがそのゴミ箱を次男にくれたのだと思ったそうです。
まあ、そういう小さな誤解は置いておいて、温泉で温まった後の楽しみは、やはり冷たい物でと言う事で、出口付近にあった自動販売機のアイスとビン牛乳を十分に堪能したミックと長女でした。
さて、翌日は動物園に行きたい、日本で犬が触りたいと言う長女の希望に応えて、富士急ハイランド旅行を泊まり掛けにして、翌日は富士サファリパークに出掛けました。
確か、私や長女、次男が最後に来たときは、長女も2歳くらい、次男に至ってはまだ歩く事も出来ない生後半年くらいの頃だったので、サファリパークが初めてのミックと、記憶の面ではそう変わりはしないので、皆まるで初めて来たように、車の窓から見えるサファリゾーンの動物たちにはしゃいでいました。
2日目はサファリパーク以外に予定も入れていなかったので、サファリゾーンの後は、ふれあいゾーンなどにも足を運び、ゆっくりと見る事が出来ました。
やはり、動物を触りたがっていただけあって、このふれあいコーナーの「ウサギを抱っこ」とか、「カンガルーの餌やり」とか、「リスザルの餌やり」などに大喜びで、何度もお小遣いでエサを買って上げていました。
その後、午後になると雲行きも怪しくなって来たのと、レンタカー店の閉店時間の夜8時までにレンタカーの返却を済ませたかったので、午後3時頃には富士サファリパークを後にして帰路に着きました。
サファリパークを出発した私は、ここに来て改めて『ナビくん』の有り難さを身に沁みて感じることになりました。
当たり前の事ですが、土地勘のない見ず知らずの土地では、地図がないと右も左も分かりません。
富士サファリパークを出発したのはいいけれど、麓に着いても、どこをどう行けば帰れるのか見当もつかないほどの方向音痴です。
私は富士サファリを出る時点で、とりあえずレンタカーを返却するトヨタレンタカーの店舗がある「西武秩父駅前」を目的地に設定したのですが、実際サファリパークを出てみると、またも頑固なナビくんが、首都高経由の帰路に誘導し始めました。
しかし、どうしても行きで来た雁坂峠経由で帰りたい私は、頭の固いナビくんをどうにかしようと、目的地を変更、経由地の『雁坂峠』まで案内させる事にしました。
すると、あれだけ頑固者だったナビくんが急に素直に「雁坂峠」までの道を案内し始めました。
なんとかナビくんを騙す事に成功した私は、ようやく元来た道を同じ道を運転出来るようになり、無事雁坂峠の麓まで到着。
その後は、また目的地を「西武秩父駅前」に変更し、ようやく峠を越えて夕方6時過ぎにはレンタカー店に辿り着く事が出来ました。
ナビを使ってみて思った事は、ナビの性能の問題なのかも知れないのですが、道を曲がったりするときに、音声や画面のタイミングがずれるのか、私が鈍いのか、一つ先の角で曲がってしまったり、逆に遅れて間借り損ねたり…ということが何度もありました。
まあ、誰かと競争をしているわけでもなかったので、もう一度Uターンしてやり直したりして何とか正しい道に戻って帰る事が出来ましたが…。
何はともあれ、今回の日本帰国中でこの旅行が、子供たちにはもちろん、私にとっても一番大変であり、思い出に残った出来事になったのは言うまでもありません。
この歳になって、こんな沢山の初体験を一度にする事になるとは思いませんでした。
平々凡々はイサーンでの生活から比べると、とても刺激的な2日間でした。
2015年06月25日
日本での日々〜その5〜富士急ハイランド旅行
前回の続きです…。
何とか初めての長距離ドライブの末、秩父市の実家から雁坂峠経由で山梨県入りし、4年越しの夢の富士急ハイランドに辿り着きました。
ホテルでチェックインを済ませ、宿泊プランに含まれている富士急ハイランドのパスポートと二日目の富士サファリパークの入場券を受け取った私たちは、ホテルの係員に案内された通り地下に続く階段を降りて行くと、ホテルの裏庭から続く富士急ハイランドへの宿泊者用の優先入場口を通されて、開園時間よりも30分前に入場出来ました。
と言っても、別に30分前からアトラクションを開始して乗れると言うのではなく、一般入場者が入って来る前に、優先的に待ち列に並べると言うだけの事でした。
とは言え、せっかくの優先権、並ばない事には仕方ないのだが、何しろ初めての富士急ハイランド。
下見のパンフレットだけでは位置がいまいち掴めなかったので、取り敢えず入場口からすぐに見えた、何やら舞台裏のような建物に数人並んでいるのが見えたのでそこに並ぼうと次男と長女が言い、末っ子のミックもそれに続いて走り出しました。
私は後を追いながら、それが一体何のアトラクションなのかパンフレットで確認。
何しろ日本語を読めるのは私だけなので、大急ぎで細かい説明を確認すると、それは富士急ハイランドの名物絶叫マシンの一つで、『高飛車』と言う名称のアトラクションでした。
後から追いついた私ですが、まさかこの歳になって絶叫マシンに乗ろうとは思わないので、次男と長女はいいとして、ミックが乗車可能基準に合うのか心配で、係員のお兄さんに尋ねると、今年9歳になったミックは身長は137センチで問題ないものの、年齢制限が10歳以上と書いてあったので、つい「9歳なんですが…。」と言ってしまったら、「ああ、じゃあちょっと…。」と断られてしまいました。
まあ、体格的には5年生くらいでも通りそうなので、黙っていれば分からなかったのですが、パンフレットの説明を読んだ私は、ミックを兄姉に任せて乗せるのが心配になってしまい、つい乗せたくない気持ちから断られるような事をわざわざ言ってしまったのだと思います。
いくら安全に設計されているとは言っても、どんな物でも絶対と言う保証はないので、そこに乗せるのを心配した母心だったのですが、いつも名前で対等に呼んでいる兄姉は乗れるのに自分が乗れないと言う事で、すっかりへそを曲げてしまったミックを後30分以上もじっとさせて置くのも無理だろうと判断し、どうにかなだめすかして、仕方なくそのすぐ先にあったアトラクションの入り口に並ぶ事にしました。
ところが、私とミックが並んだ先は、『ドドンパ』と言う名称の、やはり富士急名物の絶叫マシンの一つで、これは降下角度が高飛車ほどではないものの、ほぼ垂直に降下する箇所が含まれて、しかもそのスピードがスタート直後に時速172kmに達すると言う、脅威の加速が売り物のアトラクションだったのです。
でも、私はもう覚悟を決めて、今度も乗車基準が先ほどと同じ身長130センチ以上で、年齢10歳以上と言うのにも関わらず、係員のお兄さんがミックの身長を確認し特に年齢を聞かなかったので、今度は余計な口は挟まずそのまま通過しました。
この機会を逃したら、今度はいつ日本の遊園地に連れて来られるか分からないと言う思いで、無理にでも乗る事にしました。
そして、そのアトラクションは確かに息を吐く暇もないくらいの速度なのですが、20年ぶりくらいの絶叫マシンに生きた心地がしなかった私は、その速さを感じる余裕もなく、ただ隣に座るミックが恐怖に泣き出すのではないかとそればかりを心配して、ミックの方ばかり見ていました。
ところが親の心配など気がつく事もなく、当のミックは思いの外このスピードマシンを楽しんでいたらしく、私の方を向いても泣くどころか余裕の笑顔でした。
そうして私たちの方が先に終わってしまったので、例の高飛車の出口で次男と長女が出て来るのを待って合流し、次のアトラクションへ向かいましたが、もうこの頃には優先入園の特権は終わっていて、一般入場者たちがだいぶ入って来ていました。
こうして、次々と乗れるだけのアトラクションを相談しながら回り、途中から単独行動に出た次男はほとんどの絶叫系マシンを制覇したそうですが、私が心配な長女とミックは私と割とゆったりしたアトラクションを中心に回りました。
途中、お昼過ぎに合流した次男と一緒に園内の売店で、焼きそばや肉おにぎり、たこ焼きなどの日本風ファーストフードで昼食を済ませ、食後には今回の帰国で一日一個以上がお約束の「ソフトクリーム」を食べました。(長女の目標は3週間の日本滞在中、ソフトクリームを100個食べる事だったのです。)
午後からは、パスポート代分の元は取ろうと張り切って(実際はすでに元は取れているのに)、また何度も絶叫マシンに乗る為に単独行動に出掛けた次男と別れて、ミックでも乗れそうな(実際なんでも乗れそうなのですが、私が付いて行けないので)お子様向けアトラクションを中心に乗りました。
その中でもミックが気に入ったのが、これ。
おや?何だかどこか懐かしいような気が…と思っていたら、ミックが2周目に乗っているときに気がつきました。
アトラクションの名称は『マッド•マウス』。
マウス=ネズミ=หนู…?
そう、まさにタイで地元のお祭りに運ばれて来る移動遊園地の『เจ้าหนูมหัศจรรย์』(とんでもないネズミくん)と呼ばれる、組み立て式ジェットコースターの本家だった(と思う)のです。
この移動遊園地の組み立て式ジェットコースターの恐怖については、以前のブログで書いた事があるのですが、タイの組み立て式ジェットコースターは、エンジンにクボタの耕耘機の原動機を使い、ジェットコースターを引っ張り上げる段階のチェーンの台部分には、移動の途中で失くしたのか、接続部分のボルトが足りなかったらしく、ペンチなどの工具で挟んで、とりあえず走行出来るように組み立ててありました。
それでも、その恐怖のジェットコースターに3回は乗った姉弟が、今回はおそらくその本家であるこの『マッド•マウス』に乗ったので、ミックに至っては長女と一緒に3回、飽きた長女に代わって、私と一緒に4回、その後戻って来た次男と2回…と、もう係員のお姉さんに呆れられるほど乗りました。
すっかりご満悦のミック。
絶叫マシンとは比べ物にならないものの、子供騙しと思いきや、大人にとってもかなり激しい衝撃が売り物?
さすがに、日本の遊園地。
工具で一時的に留めて置くなどと言う事は有り得ませんが、とりあえず比較のため撮ってみました。
タイの移動遊園地では、この部分にロッキングプラーヤーを挟んで留めてあったのです。
そんなこんなで、遊園地を楽しんだ子供達も疲れきって閉園時間に近づいた頃、私にとって今回の帰国でサプライズとなる出来事がありました。
このミックのお気に入りのジェットコースターに乗って、4回目になろうとした時でした。
さっき乗ったばかりのジェットコースターから降りてまた続けて乗ろうと、新たに入場口の列にミックと並んでいた私は、ふとすぐ後ろを振り返りました。
何となく、物静かな気配があったので、後ろに並んでいるのは子供ではなく大人なのだとは感じていたのですが、その時何気なく振り返った私は、本当に目を丸くしました。
一瞬ですが、その後ろの人と目が合ったのですが、私は自分でも分かるくらい驚いて、目を見開いてしまっていたので、すぐにぱっと前に向き直りました。
何故かと言うと、その私たちの後ろに並んでいた人に見覚えがあったからです。
とは言え、別に知り合いと言うのではありません。
強いて言えば、私が一方的に知っているだけです。
その人は、まあ平たく言えば芸能人の部類に入るのですが、声優をされている方なので、芸能人と言ってもイベントや舞台以外はあまり公に顔を出さないため、その富士急ハイランドのアトラクションの一角で列に並んでいても、おそらくそう騒がれる事はなかったのだと思います。
でも、私はタイにいる時からその方の出演されているアニメも何度も見て、イベントのDVDなども拝見していたので、まさかその憧れの声優である楠大典さんご本人に、こんな旅行先で偶然、しかも待ち列の前後と言う至近距離でお目に掛かれるなどとは夢にも思わなかったので、もう頭の中はパニック状態でした。
本当は「楠大典さんですよね。実は私はタイに住んでいるんですが、いつも楠さんの出ているアニメなどを見させて頂いてます。これからも応援してます。」くらいの挨拶で一言二言、生の声を聞きたかったのですが、おそらく彼もその日はプライベートで来ているのだろうし、連れの方も居る事だし、こういうところでファンに声を掛けられるのは、ご本人も迷惑だろうと思ったのです。
なので声を掛けたい衝動をグッと堪え、もう一度、今度は自然に振り返りながら、「本人だ。」と確認して納得し、ミックにタイ語で話し掛けながら、いかにもさっき目を見開いてしまったのが「楠大典さん本人」に気付いたからではなく、気のせいだったと思われるように、ミックと会話する事で彼を知るはずも無い外国人のフリをし続けました。
それでも、ホテルに帰ってから、タイに居る長男に「楠大典さんが、私の後ろに並んでたんだよ。ほら、テニスの王子様の、真田真一郎の声の人!」と、自慢してしまいました。
それから、彼のその日前後のTwitterをチェックしたら、やはり富士急ハイランド付近の事には一言も書かれていなかったので、「やはりプライベートだったのだろう、声を掛けなくて良かった。」と思いました。
全く、富士急ハイランドの話から逸れてしまいましたが、今回の日本帰国の私の自分へのお土産は、この生の楠大典さんに会えたことでした。
タイに、しかもこのイサーンに居ては、絶対に会うはずもない人だったので、本当にこの偶然に感謝しました。
今回の旅行記の後半は、次回に続きます。
何とか初めての長距離ドライブの末、秩父市の実家から雁坂峠経由で山梨県入りし、4年越しの夢の富士急ハイランドに辿り着きました。
ホテルでチェックインを済ませ、宿泊プランに含まれている富士急ハイランドのパスポートと二日目の富士サファリパークの入場券を受け取った私たちは、ホテルの係員に案内された通り地下に続く階段を降りて行くと、ホテルの裏庭から続く富士急ハイランドへの宿泊者用の優先入場口を通されて、開園時間よりも30分前に入場出来ました。
と言っても、別に30分前からアトラクションを開始して乗れると言うのではなく、一般入場者が入って来る前に、優先的に待ち列に並べると言うだけの事でした。
とは言え、せっかくの優先権、並ばない事には仕方ないのだが、何しろ初めての富士急ハイランド。
下見のパンフレットだけでは位置がいまいち掴めなかったので、取り敢えず入場口からすぐに見えた、何やら舞台裏のような建物に数人並んでいるのが見えたのでそこに並ぼうと次男と長女が言い、末っ子のミックもそれに続いて走り出しました。
私は後を追いながら、それが一体何のアトラクションなのかパンフレットで確認。
何しろ日本語を読めるのは私だけなので、大急ぎで細かい説明を確認すると、それは富士急ハイランドの名物絶叫マシンの一つで、『高飛車』と言う名称のアトラクションでした。
後から追いついた私ですが、まさかこの歳になって絶叫マシンに乗ろうとは思わないので、次男と長女はいいとして、ミックが乗車可能基準に合うのか心配で、係員のお兄さんに尋ねると、今年9歳になったミックは身長は137センチで問題ないものの、年齢制限が10歳以上と書いてあったので、つい「9歳なんですが…。」と言ってしまったら、「ああ、じゃあちょっと…。」と断られてしまいました。
まあ、体格的には5年生くらいでも通りそうなので、黙っていれば分からなかったのですが、パンフレットの説明を読んだ私は、ミックを兄姉に任せて乗せるのが心配になってしまい、つい乗せたくない気持ちから断られるような事をわざわざ言ってしまったのだと思います。
いくら安全に設計されているとは言っても、どんな物でも絶対と言う保証はないので、そこに乗せるのを心配した母心だったのですが、いつも名前で対等に呼んでいる兄姉は乗れるのに自分が乗れないと言う事で、すっかりへそを曲げてしまったミックを後30分以上もじっとさせて置くのも無理だろうと判断し、どうにかなだめすかして、仕方なくそのすぐ先にあったアトラクションの入り口に並ぶ事にしました。
ところが、私とミックが並んだ先は、『ドドンパ』と言う名称の、やはり富士急名物の絶叫マシンの一つで、これは降下角度が高飛車ほどではないものの、ほぼ垂直に降下する箇所が含まれて、しかもそのスピードがスタート直後に時速172kmに達すると言う、脅威の加速が売り物のアトラクションだったのです。
でも、私はもう覚悟を決めて、今度も乗車基準が先ほどと同じ身長130センチ以上で、年齢10歳以上と言うのにも関わらず、係員のお兄さんがミックの身長を確認し特に年齢を聞かなかったので、今度は余計な口は挟まずそのまま通過しました。
この機会を逃したら、今度はいつ日本の遊園地に連れて来られるか分からないと言う思いで、無理にでも乗る事にしました。
そして、そのアトラクションは確かに息を吐く暇もないくらいの速度なのですが、20年ぶりくらいの絶叫マシンに生きた心地がしなかった私は、その速さを感じる余裕もなく、ただ隣に座るミックが恐怖に泣き出すのではないかとそればかりを心配して、ミックの方ばかり見ていました。
ところが親の心配など気がつく事もなく、当のミックは思いの外このスピードマシンを楽しんでいたらしく、私の方を向いても泣くどころか余裕の笑顔でした。
そうして私たちの方が先に終わってしまったので、例の高飛車の出口で次男と長女が出て来るのを待って合流し、次のアトラクションへ向かいましたが、もうこの頃には優先入園の特権は終わっていて、一般入場者たちがだいぶ入って来ていました。
こうして、次々と乗れるだけのアトラクションを相談しながら回り、途中から単独行動に出た次男はほとんどの絶叫系マシンを制覇したそうですが、私が心配な長女とミックは私と割とゆったりしたアトラクションを中心に回りました。
途中、お昼過ぎに合流した次男と一緒に園内の売店で、焼きそばや肉おにぎり、たこ焼きなどの日本風ファーストフードで昼食を済ませ、食後には今回の帰国で一日一個以上がお約束の「ソフトクリーム」を食べました。(長女の目標は3週間の日本滞在中、ソフトクリームを100個食べる事だったのです。)
午後からは、パスポート代分の元は取ろうと張り切って(実際はすでに元は取れているのに)、また何度も絶叫マシンに乗る為に単独行動に出掛けた次男と別れて、ミックでも乗れそうな(実際なんでも乗れそうなのですが、私が付いて行けないので)お子様向けアトラクションを中心に乗りました。
その中でもミックが気に入ったのが、これ。
おや?何だかどこか懐かしいような気が…と思っていたら、ミックが2周目に乗っているときに気がつきました。
アトラクションの名称は『マッド•マウス』。
マウス=ネズミ=หนู…?
そう、まさにタイで地元のお祭りに運ばれて来る移動遊園地の『เจ้าหนูมหัศจรรย์』(とんでもないネズミくん)と呼ばれる、組み立て式ジェットコースターの本家だった(と思う)のです。
この移動遊園地の組み立て式ジェットコースターの恐怖については、以前のブログで書いた事があるのですが、タイの組み立て式ジェットコースターは、エンジンにクボタの耕耘機の原動機を使い、ジェットコースターを引っ張り上げる段階のチェーンの台部分には、移動の途中で失くしたのか、接続部分のボルトが足りなかったらしく、ペンチなどの工具で挟んで、とりあえず走行出来るように組み立ててありました。
それでも、その恐怖のジェットコースターに3回は乗った姉弟が、今回はおそらくその本家であるこの『マッド•マウス』に乗ったので、ミックに至っては長女と一緒に3回、飽きた長女に代わって、私と一緒に4回、その後戻って来た次男と2回…と、もう係員のお姉さんに呆れられるほど乗りました。
すっかりご満悦のミック。
絶叫マシンとは比べ物にならないものの、子供騙しと思いきや、大人にとってもかなり激しい衝撃が売り物?
さすがに、日本の遊園地。
工具で一時的に留めて置くなどと言う事は有り得ませんが、とりあえず比較のため撮ってみました。
タイの移動遊園地では、この部分にロッキングプラーヤーを挟んで留めてあったのです。
そんなこんなで、遊園地を楽しんだ子供達も疲れきって閉園時間に近づいた頃、私にとって今回の帰国でサプライズとなる出来事がありました。
このミックのお気に入りのジェットコースターに乗って、4回目になろうとした時でした。
さっき乗ったばかりのジェットコースターから降りてまた続けて乗ろうと、新たに入場口の列にミックと並んでいた私は、ふとすぐ後ろを振り返りました。
何となく、物静かな気配があったので、後ろに並んでいるのは子供ではなく大人なのだとは感じていたのですが、その時何気なく振り返った私は、本当に目を丸くしました。
一瞬ですが、その後ろの人と目が合ったのですが、私は自分でも分かるくらい驚いて、目を見開いてしまっていたので、すぐにぱっと前に向き直りました。
何故かと言うと、その私たちの後ろに並んでいた人に見覚えがあったからです。
とは言え、別に知り合いと言うのではありません。
強いて言えば、私が一方的に知っているだけです。
その人は、まあ平たく言えば芸能人の部類に入るのですが、声優をされている方なので、芸能人と言ってもイベントや舞台以外はあまり公に顔を出さないため、その富士急ハイランドのアトラクションの一角で列に並んでいても、おそらくそう騒がれる事はなかったのだと思います。
でも、私はタイにいる時からその方の出演されているアニメも何度も見て、イベントのDVDなども拝見していたので、まさかその憧れの声優である楠大典さんご本人に、こんな旅行先で偶然、しかも待ち列の前後と言う至近距離でお目に掛かれるなどとは夢にも思わなかったので、もう頭の中はパニック状態でした。
本当は「楠大典さんですよね。実は私はタイに住んでいるんですが、いつも楠さんの出ているアニメなどを見させて頂いてます。これからも応援してます。」くらいの挨拶で一言二言、生の声を聞きたかったのですが、おそらく彼もその日はプライベートで来ているのだろうし、連れの方も居る事だし、こういうところでファンに声を掛けられるのは、ご本人も迷惑だろうと思ったのです。
なので声を掛けたい衝動をグッと堪え、もう一度、今度は自然に振り返りながら、「本人だ。」と確認して納得し、ミックにタイ語で話し掛けながら、いかにもさっき目を見開いてしまったのが「楠大典さん本人」に気付いたからではなく、気のせいだったと思われるように、ミックと会話する事で彼を知るはずも無い外国人のフリをし続けました。
それでも、ホテルに帰ってから、タイに居る長男に「楠大典さんが、私の後ろに並んでたんだよ。ほら、テニスの王子様の、真田真一郎の声の人!」と、自慢してしまいました。
それから、彼のその日前後のTwitterをチェックしたら、やはり富士急ハイランド付近の事には一言も書かれていなかったので、「やはりプライベートだったのだろう、声を掛けなくて良かった。」と思いました。
全く、富士急ハイランドの話から逸れてしまいましたが、今回の日本帰国の私の自分へのお土産は、この生の楠大典さんに会えたことでした。
タイに、しかもこのイサーンに居ては、絶対に会うはずもない人だったので、本当にこの偶然に感謝しました。
今回の旅行記の後半は、次回に続きます。
2015年06月18日
日本での日々〜その4
また、前回からしばらく間が開いてしまいました。
前回の記事にも書いた通り、少し身体の調子が悪かったので、なかなか書けませんでした。
やはり、健康が一番と片目の痛みに耐えながら痛感しました。
さて、いよいよ22日の早朝の空が白み始めた頃、いつもなら子供達はまだ起きていない時間に起こし、それぞれに歯磨きと顔を洗わせて、前日スーパーで買っておいたおにぎりを持って、朝食も摂らずに出発しました。
ここで、タイなら一人一人がシャワーを浴びるので、4人で少なくとも1時間半くらい、シャワーの時間分早起きしなければならない所ですが、日本はまだ寒いし、日本の習慣に従って、朝にシャワーを浴びないようになっていたので、出発予定の30分前に起床で十分に間に合いました。
さっそく例のハイブリットカーのエンジンを掛けます。
前日、少しは試乗してみたものの、自分の乗り馴れた車ではなく、しかもレンタカーなので、やはり改めて緊張しました。
昔、レンタカー店に勤めていた弟から、「少しの傷でも2、3万円だから、縁石なんかは特に注意」などと言われ、事故や損傷などについての注意を聞いていたので、さらに緊張が高まりました。
まず、今回借りた車にはカーナビと言うものが付いていたのですが、これを使ったと言うか触った経験もない私は、まずレンタカー店の店員さんに目的地などの入力をして貰ったのですが、このカーナビと言うのが中々の頑固者で、私が実家を出発して雁坂峠ルートを行こうと思っているのに、どうしても首都高に行く方向に連れて行こうとするのです。
おそらく、そこに「雁坂峠経由」だとか入れれば良かったのでしょうが、最初は何が何だか良く分からなくて、下手に触って設定出来なくなったら困るので、カーナビ君には触らず、反抗期のまま放って置きました。
幸いまだそこは地元だったので、地元にいた18年間に通った事も無い道だったにも関わらず、取り敢えず雁坂峠までは、勘と看板を見て何とか行く事が出来ました。
さて、雁坂峠の麓まで来てようやく、反抗期のナビ君も自分の状況が飲み込めたようで、私を無理矢理首都高へと誘うことは諦めたようでした。
タイでは体験出来ない、かなりきついつづら折りの峠道を上って行くと、だいぶ長いトンネルに入り、その走っても走っても中々抜けられないかなりの距離と、暗さやその決まった道幅、その割に、後ろからガンガン迫って来る大型ダンプなどの勢いに、なんだか逃げ場の無いトンネル内で事故が起きたらどうするんだろう…と、タイにいるときより余程ゆっくり走っている(時速60〜70km程度)のに、タイの田舎道で120km出して走っているより、恐怖を感じました。
トンネルを抜けて、最初のドキドキの運転が終わるとようやく山梨県に入りました。
とは言え、そのトンネルの途中から県境を過ぎていたのですが、トンネルの中なので、山梨県!と言う感動が湧かなかったのです。
そういえば、そのトンネルの中で次男がいきなり「หมูนอน」と言い出したのです。
そう、昔よくなぞなぞやダジャレで、小学生たちが言って遊んでいた、「トン=หมู(豚)」が、「寝る=นอน」から、「トンネル」と言うあれです。
次男は、長男と違って2歳くらいまでしか日本にいなかったので、普通に日本語で会話する事はまず有りません。
でも、次男なりに日本や日本語にも興味があって、自分の中でそれなりに単語を理解しているようです。
そして、よくこうやって変なダジャレとか、発音の似た言葉を掛けて冗談を言うのです。
さて、話が逸れましたが、こうして山梨県に入った私たちは、素直に案内を始めたナビ君に従って、一般道から中央道に乗って、生まれて初めての高速道路運転です。
まあ、普段から助手席でなら高速に乗る際のカーブなども経験があるのと、コラートなどに行った時は、高速並みのスピードで走行している車線に合流する事もあるので、思ったよりすんなりと日本の高速道路にも進入出来ました。
富士山が見えて来たときには、揃ってすっかり眠ってしまっていた子供達に「富士山だよ!」と声を掛けましたが、起きたのは助手席に座っていた長女だけでした。
長女は、記憶にある限りでは初めて間近で見る富士山を一所懸命カメラに収めて、さっそくインスタグラムなどにアップしていました。
そうして飽きずに写真を摂りまくる長女を横目に、しばらく走って行くと、それほど経たないうちに、河口湖の降り口の看板が出て来たと思ったら、遠くに何やら変わった感じの建造物が…。
そう、富士急ハイランドのアトラクションが見えて来ました。
ようやく着いたか…と言う感慨に耽る間もなく、高速を降り富士急ハイランドの入り口に着いたときには、大体予定時刻の8時過ぎでした。
まだ、開演時間には間があるので、私たちは予約して置いた、ハイランドリゾートホテル&スパの駐車場に駐車し、手荷物を持ってホテル宿泊者の優先入場特典で開園時間よりも早く入る事が出来ました。
また、今回もここで…。
中々話が進まず申し訳ありませんが、今しばらく我慢してお付き合い下さい。
次回は、いよいよ富士急ハイランドに突入です。
予定では…。
前回の記事にも書いた通り、少し身体の調子が悪かったので、なかなか書けませんでした。
やはり、健康が一番と片目の痛みに耐えながら痛感しました。
さて、いよいよ22日の早朝の空が白み始めた頃、いつもなら子供達はまだ起きていない時間に起こし、それぞれに歯磨きと顔を洗わせて、前日スーパーで買っておいたおにぎりを持って、朝食も摂らずに出発しました。
ここで、タイなら一人一人がシャワーを浴びるので、4人で少なくとも1時間半くらい、シャワーの時間分早起きしなければならない所ですが、日本はまだ寒いし、日本の習慣に従って、朝にシャワーを浴びないようになっていたので、出発予定の30分前に起床で十分に間に合いました。
さっそく例のハイブリットカーのエンジンを掛けます。
前日、少しは試乗してみたものの、自分の乗り馴れた車ではなく、しかもレンタカーなので、やはり改めて緊張しました。
昔、レンタカー店に勤めていた弟から、「少しの傷でも2、3万円だから、縁石なんかは特に注意」などと言われ、事故や損傷などについての注意を聞いていたので、さらに緊張が高まりました。
まず、今回借りた車にはカーナビと言うものが付いていたのですが、これを使ったと言うか触った経験もない私は、まずレンタカー店の店員さんに目的地などの入力をして貰ったのですが、このカーナビと言うのが中々の頑固者で、私が実家を出発して雁坂峠ルートを行こうと思っているのに、どうしても首都高に行く方向に連れて行こうとするのです。
おそらく、そこに「雁坂峠経由」だとか入れれば良かったのでしょうが、最初は何が何だか良く分からなくて、下手に触って設定出来なくなったら困るので、カーナビ君には触らず、反抗期のまま放って置きました。
幸いまだそこは地元だったので、地元にいた18年間に通った事も無い道だったにも関わらず、取り敢えず雁坂峠までは、勘と看板を見て何とか行く事が出来ました。
さて、雁坂峠の麓まで来てようやく、反抗期のナビ君も自分の状況が飲み込めたようで、私を無理矢理首都高へと誘うことは諦めたようでした。
タイでは体験出来ない、かなりきついつづら折りの峠道を上って行くと、だいぶ長いトンネルに入り、その走っても走っても中々抜けられないかなりの距離と、暗さやその決まった道幅、その割に、後ろからガンガン迫って来る大型ダンプなどの勢いに、なんだか逃げ場の無いトンネル内で事故が起きたらどうするんだろう…と、タイにいるときより余程ゆっくり走っている(時速60〜70km程度)のに、タイの田舎道で120km出して走っているより、恐怖を感じました。
トンネルを抜けて、最初のドキドキの運転が終わるとようやく山梨県に入りました。
とは言え、そのトンネルの途中から県境を過ぎていたのですが、トンネルの中なので、山梨県!と言う感動が湧かなかったのです。
そういえば、そのトンネルの中で次男がいきなり「หมูนอน」と言い出したのです。
そう、昔よくなぞなぞやダジャレで、小学生たちが言って遊んでいた、「トン=หมู(豚)」が、「寝る=นอน」から、「トンネル」と言うあれです。
次男は、長男と違って2歳くらいまでしか日本にいなかったので、普通に日本語で会話する事はまず有りません。
でも、次男なりに日本や日本語にも興味があって、自分の中でそれなりに単語を理解しているようです。
そして、よくこうやって変なダジャレとか、発音の似た言葉を掛けて冗談を言うのです。
さて、話が逸れましたが、こうして山梨県に入った私たちは、素直に案内を始めたナビ君に従って、一般道から中央道に乗って、生まれて初めての高速道路運転です。
まあ、普段から助手席でなら高速に乗る際のカーブなども経験があるのと、コラートなどに行った時は、高速並みのスピードで走行している車線に合流する事もあるので、思ったよりすんなりと日本の高速道路にも進入出来ました。
富士山が見えて来たときには、揃ってすっかり眠ってしまっていた子供達に「富士山だよ!」と声を掛けましたが、起きたのは助手席に座っていた長女だけでした。
長女は、記憶にある限りでは初めて間近で見る富士山を一所懸命カメラに収めて、さっそくインスタグラムなどにアップしていました。
そうして飽きずに写真を摂りまくる長女を横目に、しばらく走って行くと、それほど経たないうちに、河口湖の降り口の看板が出て来たと思ったら、遠くに何やら変わった感じの建造物が…。
そう、富士急ハイランドのアトラクションが見えて来ました。
ようやく着いたか…と言う感慨に耽る間もなく、高速を降り富士急ハイランドの入り口に着いたときには、大体予定時刻の8時過ぎでした。
まだ、開演時間には間があるので、私たちは予約して置いた、ハイランドリゾートホテル&スパの駐車場に駐車し、手荷物を持ってホテル宿泊者の優先入場特典で開園時間よりも早く入る事が出来ました。
また、今回もここで…。
中々話が進まず申し訳ありませんが、今しばらく我慢してお付き合い下さい。
次回は、いよいよ富士急ハイランドに突入です。
予定では…。
2015年06月06日
日本での日々〜その3
途切れ途切れで書いている一時帰国録なので、中々話が進まず申し訳有りません。
さて、気を取り直して…。
6年前と2年前の帰国時には、まだ独身だった弟が気を遣って、6年前は両親と弟と一緒に、2年前は母と弟と私たちで、帰国の度に家族旅行に連れて行ってくれていました。
しかし、今回はその弟も結婚して家庭を持ったので、まさか新婚家庭の弟を私たちの都合で付き合わせるのも申し訳ないと思い、今回の母との旅行は諦めて、近場で温泉にでも行くか…くらいに思っていました。
でも、その前回前々回の帰国時に温泉とその付近の遊園地に行った楽しい思い出のある子供達は、やはりタイでは体験出来ない、日本の遊園地の絶叫マシーンなどに未練があったので、今回は帰国前に私一人で子供達の希望を考慮して、富士急ハイランドと富士サファリパーク行きの1泊旅行を計画して置きました。
とりあえず、タイに居る内にネットで付近のホテルの予約と、その宿泊プランで遊園地のパスポートとサファリパークの入場券を予約しました。
本当なら母も一緒に連れて行きたかったのですが、遊園地などが土日だと混むだろうと思い、平日の真ん中を狙って予約したので、母の通院などの事情や、また、最初は軽自動車で行くつもり(普通車の運転は自信が無かったため)だったので、子供と私だけで定員いっぱいだと言う事もありました。
それに、前回の時も温泉や宿泊施設ではいいのですが、遊園地で子供達が遊んでいる間、待たせているのを申し訳なく思い、母にも悪いし、こちらも思い切り楽しめないと言う事もありました。
と言う訳で、タイから計画して行った、今回の帰国の一大イベントである『富士急ハイランド&富士サファリパーク1泊旅行』は、到着して1週間経った4月の22日に決行されたのでした。
浅草の時から身に沁みた事ですが、とにかく私が引率しなければ何も進まない…と言うことで、タイから日程とホテルの予約は済ませたものの、日本に着いた時点では、交通手段はまだ決めかねていました。
私は気軽に、帰国時にはいつも使わせてもらっている実家の母の軽自動車を借りて…などと思っていたのですが、よくよく考えたら、その車は母にとっても唯一の交通手段で、通院などに使うものでした。
なので、一度は都内から高速バスや電車で…と言う手段も考えたのですが、我が家は人数が纏まっているので、荷物もそれなりにあるし、どう考えても車で行った方がいいと言う事になりました。
しかし、最初から軽自動車で…と考えていた私なのですが、実は生まれてこの方、高速道路での運転経験が皆無だったのです。
ナビなどで検索すると、花園インターから高速に乗って…などとなっていて、どう見てもあの有名な「首都高」と言うものに乗らなければならないようなのです。
他にも下道で行く方法などを検索したのですが、元々日本の道路事情に疎い私は、ますますちんぷんかんぷん…。
そこで、弟たちにも相談した結果、この人数で行くなら山道は上りがきついだろうから、軽自動車より小さめの乗用車を借りた方がいいと言う事。
そして乗用車のレンタカーを借りれば、普通はナビが付いている事。また、秩父市からなら、花園から首都高と言う道に出なくても、有料道路の雁坂峠から山梨に出られる事。その先から富士急までは少し高速に乗らなければならないけれど、首都高のように複雑ではない…などを言う事を教えてもらい、なんとか前日の夕方に駅前のレンタカー店でトヨタのアクアと言う小型乗用車を借りて、22日の早朝に実家を出発しました。
このアクアと言うのがハイブリット車なので少しレンタル料は高めだが、燃料代が節約出来ると言う事で、最初は何の事か分かりませんでしたが(今もよくわかっていませんが)、まあ、タイでプロパンガスのタンクをトランクに積んで走っているような感覚(だいぶ技術のレベルが違うとは思うが)なのだと理解して、レンタルしました。
最初乗ったときは、エンジン音が全然聞こえないので、エンジンが掛かっていないのかと思って、もう一度エンジンを掛け直しそうになりました。
でも、それは最後まで同じで、ダッシュボードに点灯している表示でエンジンが掛かっているのを確認するのだと理解しました。
いつもタイで、暴走族のマフラー音のようなエンジン音ばかり聞いている私には、そのハイブリット車のエンジン音はまったく聞き取れませんでした。
と言う訳で、今回の帰国で初めてのイベント。
初レンタカーのハイブリット車、初高速道路、そして初富士急ハイランド…と言う、初物づくしのドキドキの2日間が幕を開けたのでした。
さて、気を取り直して…。
6年前と2年前の帰国時には、まだ独身だった弟が気を遣って、6年前は両親と弟と一緒に、2年前は母と弟と私たちで、帰国の度に家族旅行に連れて行ってくれていました。
しかし、今回はその弟も結婚して家庭を持ったので、まさか新婚家庭の弟を私たちの都合で付き合わせるのも申し訳ないと思い、今回の母との旅行は諦めて、近場で温泉にでも行くか…くらいに思っていました。
でも、その前回前々回の帰国時に温泉とその付近の遊園地に行った楽しい思い出のある子供達は、やはりタイでは体験出来ない、日本の遊園地の絶叫マシーンなどに未練があったので、今回は帰国前に私一人で子供達の希望を考慮して、富士急ハイランドと富士サファリパーク行きの1泊旅行を計画して置きました。
とりあえず、タイに居る内にネットで付近のホテルの予約と、その宿泊プランで遊園地のパスポートとサファリパークの入場券を予約しました。
本当なら母も一緒に連れて行きたかったのですが、遊園地などが土日だと混むだろうと思い、平日の真ん中を狙って予約したので、母の通院などの事情や、また、最初は軽自動車で行くつもり(普通車の運転は自信が無かったため)だったので、子供と私だけで定員いっぱいだと言う事もありました。
それに、前回の時も温泉や宿泊施設ではいいのですが、遊園地で子供達が遊んでいる間、待たせているのを申し訳なく思い、母にも悪いし、こちらも思い切り楽しめないと言う事もありました。
と言う訳で、タイから計画して行った、今回の帰国の一大イベントである『富士急ハイランド&富士サファリパーク1泊旅行』は、到着して1週間経った4月の22日に決行されたのでした。
浅草の時から身に沁みた事ですが、とにかく私が引率しなければ何も進まない…と言うことで、タイから日程とホテルの予約は済ませたものの、日本に着いた時点では、交通手段はまだ決めかねていました。
私は気軽に、帰国時にはいつも使わせてもらっている実家の母の軽自動車を借りて…などと思っていたのですが、よくよく考えたら、その車は母にとっても唯一の交通手段で、通院などに使うものでした。
なので、一度は都内から高速バスや電車で…と言う手段も考えたのですが、我が家は人数が纏まっているので、荷物もそれなりにあるし、どう考えても車で行った方がいいと言う事になりました。
しかし、最初から軽自動車で…と考えていた私なのですが、実は生まれてこの方、高速道路での運転経験が皆無だったのです。
ナビなどで検索すると、花園インターから高速に乗って…などとなっていて、どう見てもあの有名な「首都高」と言うものに乗らなければならないようなのです。
他にも下道で行く方法などを検索したのですが、元々日本の道路事情に疎い私は、ますますちんぷんかんぷん…。
そこで、弟たちにも相談した結果、この人数で行くなら山道は上りがきついだろうから、軽自動車より小さめの乗用車を借りた方がいいと言う事。
そして乗用車のレンタカーを借りれば、普通はナビが付いている事。また、秩父市からなら、花園から首都高と言う道に出なくても、有料道路の雁坂峠から山梨に出られる事。その先から富士急までは少し高速に乗らなければならないけれど、首都高のように複雑ではない…などを言う事を教えてもらい、なんとか前日の夕方に駅前のレンタカー店でトヨタのアクアと言う小型乗用車を借りて、22日の早朝に実家を出発しました。
このアクアと言うのがハイブリット車なので少しレンタル料は高めだが、燃料代が節約出来ると言う事で、最初は何の事か分かりませんでしたが(今もよくわかっていませんが)、まあ、タイでプロパンガスのタンクをトランクに積んで走っているような感覚(だいぶ技術のレベルが違うとは思うが)なのだと理解して、レンタルしました。
最初乗ったときは、エンジン音が全然聞こえないので、エンジンが掛かっていないのかと思って、もう一度エンジンを掛け直しそうになりました。
でも、それは最後まで同じで、ダッシュボードに点灯している表示でエンジンが掛かっているのを確認するのだと理解しました。
いつもタイで、暴走族のマフラー音のようなエンジン音ばかり聞いている私には、そのハイブリット車のエンジン音はまったく聞き取れませんでした。
と言う訳で、今回の帰国で初めてのイベント。
初レンタカーのハイブリット車、初高速道路、そして初富士急ハイランド…と言う、初物づくしのドキドキの2日間が幕を開けたのでした。
2015年05月20日
日本での日々〜その2
日本帰国2日目。
ようやく、実家のある西武秩父駅にたどり着いた私たちは、最初は駅から路線バスで実家まで帰ろうと思っていたのですが、弟が仕事を休んで駅まで迎えに来てくれることになりました。
その日は早朝にホテルを出てから、駅の構内の自動販売機でおにぎりや菓子パンを買って食べると言う状態で、まともな食事も取っていなかったので、弟と待ち合わせする間に駅の近くの和風ファミレスに入る事にしました。
久々のファミレス。
タイのチャイヤプムに居ては、日本風のファミレスなどもちろん入る機会も無く、外食と言ってもせいぜい町食堂が関の山。
コラートやコンケーンのデパートに入っている、日系ファミレスチェーン店にも、数年に一度行く機会があるかどうかなので、この駅前の平凡なファミレスでさえ、妙に緊張してしまいました。
さて、タイの子供3人を連れての日本のファミレス。
当然、メニューもいちいち説明しなければなりません。
でも、我が子でもあるので、大体の好みは分かっており、それぞれメニュー写真も見て選びましたが、タイの金銭感覚がまだ抜けない私は、メニューの金額に内心ドキドキしていました。
一品一品が数百円から千円以上。
日本の貨幣価値から考えたらごく普通の金額なのですが、久々に日本円を使っているので、タイでいつも食べているように食後のデザートも入れたら、4人で4千円近くになってしまいました。
今回の一時帰国は、夫が気まぐれで言い出したにも関わらず、その気まぐれついでに、いざ航空券の予約の段階になったら、以前利用していた航空会社から格安航空会社にしろと言われ、日本行きの所持金の為に両替する金額も、2年前の一時帰国の時の4分の1に削減。
ドンムアン空港で両替して渡された日本円を、成田空港のスタンドショップで最初に使った時から、すでに私の頭の中ではタイに戻る時までに、一体いくら使うのだろう…、そして一体いくら日本円を持ち帰れるのだろう…と言う事で、頭がいっぱいでした。
それでも、せっかくの日本。
子供達には、この先いつ食べられるか分からない日本の食事や美味しいものを沢山食べさせてやりたい…と、なんとか遣り繰りに頭を悩ませた3週間でした。
ようやく、実家のある西武秩父駅にたどり着いた私たちは、最初は駅から路線バスで実家まで帰ろうと思っていたのですが、弟が仕事を休んで駅まで迎えに来てくれることになりました。
その日は早朝にホテルを出てから、駅の構内の自動販売機でおにぎりや菓子パンを買って食べると言う状態で、まともな食事も取っていなかったので、弟と待ち合わせする間に駅の近くの和風ファミレスに入る事にしました。
久々のファミレス。
タイのチャイヤプムに居ては、日本風のファミレスなどもちろん入る機会も無く、外食と言ってもせいぜい町食堂が関の山。
コラートやコンケーンのデパートに入っている、日系ファミレスチェーン店にも、数年に一度行く機会があるかどうかなので、この駅前の平凡なファミレスでさえ、妙に緊張してしまいました。
さて、タイの子供3人を連れての日本のファミレス。
当然、メニューもいちいち説明しなければなりません。
でも、我が子でもあるので、大体の好みは分かっており、それぞれメニュー写真も見て選びましたが、タイの金銭感覚がまだ抜けない私は、メニューの金額に内心ドキドキしていました。
一品一品が数百円から千円以上。
日本の貨幣価値から考えたらごく普通の金額なのですが、久々に日本円を使っているので、タイでいつも食べているように食後のデザートも入れたら、4人で4千円近くになってしまいました。
今回の一時帰国は、夫が気まぐれで言い出したにも関わらず、その気まぐれついでに、いざ航空券の予約の段階になったら、以前利用していた航空会社から格安航空会社にしろと言われ、日本行きの所持金の為に両替する金額も、2年前の一時帰国の時の4分の1に削減。
ドンムアン空港で両替して渡された日本円を、成田空港のスタンドショップで最初に使った時から、すでに私の頭の中ではタイに戻る時までに、一体いくら使うのだろう…、そして一体いくら日本円を持ち帰れるのだろう…と言う事で、頭がいっぱいでした。
それでも、せっかくの日本。
子供達には、この先いつ食べられるか分からない日本の食事や美味しいものを沢山食べさせてやりたい…と、なんとか遣り繰りに頭を悩ませた3週間でした。
2015年05月16日
日本での日々〜その1
前々回の、日本で4月20日にアップした記事の続きです…。
正直、すでにタイの日常に戻ってしまっている私には、日本で過ごした約三週間が本当に夢だったかのようで、日本で過ごした日々に全く現実感が無くなってしまいました。
なので、それを思い出す為にも、少しずつ数週間前からの記憶を辿り辿り書いてみたいと思います。
まず、成田に到着して予め予約して置いた空港付近のホテルに宿泊した私たちは、2年ぶりの日本での第一日目の朝を迎えました。
成田を早朝に出発した為、実家に着くまでには十分な時間の余裕があったので、成田から直行で池袋には向かわず、今やタイ人観光客の聖地とまで言われている?浅草に寄り道をして行く事にしました。
予めスマホに入れて置いた乗り換えアプリで、何度も予習した日本の鉄道の乗り換えを無事に済ませ、子供3人を引率して何とか浅草まで辿り着きました。
何とか…と言うのは、久々の日本で人の流れに中々ついて行けず、行き先の表示を見つけるのに手惑い、オロオロしていたり、改札の機械のIC専用改札機と言うのに戸惑い、何度も間違えてばかりで、子供たちからは不信の目で見られる始末…。
実は、IC専用改札機と言うのが結局どういうものか分かっていなくて、ついさっきこれを書こうとして、確認の為調べて初めて意味が分かったのでした。
私も子供たちも、普段イサーンのド田舎では改札を通る機会もないので、都内の駅の構内や改札などには目を白黒させているだけでした。
それはさておき、とりあえず辿り着いた浅草の浅草寺で、大して歩いてもいないのに、歩き疲れた次男と三男を入り口の門のところに待たせ、長女は念願だった日本らしい建物を撮影し、私はこっそりと長女の大学合格祈願をしました。
ここはタイ人が湧くほどいるとニュースにも出てたのに、妙に中国人の方が多いな…などと思って歩いていると、土産物屋さんが軒を並べる界隈に、いました!幼稚園児の遠足のような黄色い旗を持ったガイドに連れられたタイ人の集団が…。
そして、この界隈にあるお菓子屋さんのメロンパンをタイ人のタレントが紹介したところ、もうそれを一口食べようと、その店に連日タイ人の行列が出来るのだとも聞いていましたが、何しろスマホのネット契約がまだだったので、情報が得られない…。
そうするうちに、タイ人の集団はどこかに流れて行きましたが、ちょうど紙に包んだ自分たちの顔ほどもある大きなメロンパンらしきものを頬張っている女子高生くらいの女の子たちを見掛けました。
多分、私たちのように田舎から出て来た…と言う感じだったのですが、おそらく彼女たちの食べていたあれこそが、タイ人が買い漁ると言う噂のメロンパンだったのだと思いました。
実は、日本好きの姪から、このメロンパンをお土産に買って来てくれと言われていたのですが、まさか残り3週間もあるのでは無理に決まっているので、帰る日に空港のコンビにででも買うことにしました。
当初は、秋葉原に行ってみたいと言っていた次男の要望を聞いて、浅草から上野や秋葉原までちょっと見程度で観光しようと計画していたのですが、タイで歩き慣れていない子供たち、浅草寺ですでに力尽きてしまったようで、「早くおばあちゃんちに行きたい…。」と言い出したので、上野秋葉観光は中止、そこから池袋を目指し、西武池袋線に乗り換え、一路実家のある西武秩父駅を目指したのでした。
正直、すでにタイの日常に戻ってしまっている私には、日本で過ごした約三週間が本当に夢だったかのようで、日本で過ごした日々に全く現実感が無くなってしまいました。
なので、それを思い出す為にも、少しずつ数週間前からの記憶を辿り辿り書いてみたいと思います。
まず、成田に到着して予め予約して置いた空港付近のホテルに宿泊した私たちは、2年ぶりの日本での第一日目の朝を迎えました。
成田を早朝に出発した為、実家に着くまでには十分な時間の余裕があったので、成田から直行で池袋には向かわず、今やタイ人観光客の聖地とまで言われている?浅草に寄り道をして行く事にしました。
予めスマホに入れて置いた乗り換えアプリで、何度も予習した日本の鉄道の乗り換えを無事に済ませ、子供3人を引率して何とか浅草まで辿り着きました。
何とか…と言うのは、久々の日本で人の流れに中々ついて行けず、行き先の表示を見つけるのに手惑い、オロオロしていたり、改札の機械のIC専用改札機と言うのに戸惑い、何度も間違えてばかりで、子供たちからは不信の目で見られる始末…。
実は、IC専用改札機と言うのが結局どういうものか分かっていなくて、ついさっきこれを書こうとして、確認の為調べて初めて意味が分かったのでした。
私も子供たちも、普段イサーンのド田舎では改札を通る機会もないので、都内の駅の構内や改札などには目を白黒させているだけでした。
それはさておき、とりあえず辿り着いた浅草の浅草寺で、大して歩いてもいないのに、歩き疲れた次男と三男を入り口の門のところに待たせ、長女は念願だった日本らしい建物を撮影し、私はこっそりと長女の大学合格祈願をしました。
ここはタイ人が湧くほどいるとニュースにも出てたのに、妙に中国人の方が多いな…などと思って歩いていると、土産物屋さんが軒を並べる界隈に、いました!幼稚園児の遠足のような黄色い旗を持ったガイドに連れられたタイ人の集団が…。
そして、この界隈にあるお菓子屋さんのメロンパンをタイ人のタレントが紹介したところ、もうそれを一口食べようと、その店に連日タイ人の行列が出来るのだとも聞いていましたが、何しろスマホのネット契約がまだだったので、情報が得られない…。
そうするうちに、タイ人の集団はどこかに流れて行きましたが、ちょうど紙に包んだ自分たちの顔ほどもある大きなメロンパンらしきものを頬張っている女子高生くらいの女の子たちを見掛けました。
多分、私たちのように田舎から出て来た…と言う感じだったのですが、おそらく彼女たちの食べていたあれこそが、タイ人が買い漁ると言う噂のメロンパンだったのだと思いました。
実は、日本好きの姪から、このメロンパンをお土産に買って来てくれと言われていたのですが、まさか残り3週間もあるのでは無理に決まっているので、帰る日に空港のコンビにででも買うことにしました。
当初は、秋葉原に行ってみたいと言っていた次男の要望を聞いて、浅草から上野や秋葉原までちょっと見程度で観光しようと計画していたのですが、タイで歩き慣れていない子供たち、浅草寺ですでに力尽きてしまったようで、「早くおばあちゃんちに行きたい…。」と言い出したので、上野秋葉観光は中止、そこから池袋を目指し、西武池袋線に乗り換え、一路実家のある西武秩父駅を目指したのでした。
2015年05月11日
日本より戻りました。
久々の日本帰国。
予定していた約三週間はあっという間に過ぎ、タイの日常に戻った今では、まさに夢のような三週間でした。
当初は逐一報告するくらいに、ブログをアップしようと思っていたのに、気がつけば慌ただしく過ぎていまい、最初の記事を書いただけで、もうタイに戻って来てしまいました。
日本での詳しい出来事は、また2年前と同じように追々記事にして行くとして、今回は思った事を簡単に書いてみたいと思います。
まず、前回の記事の冒頭で書いた、成田空港に着いたと
きの「日本の係官の対応や、お店の接客態度」への感動に対し、タイに戻ってドンムアン空港(エアアジアはスワンナプーム着ではないので)に着いたときは、入国係官のお姉さんの「やってやってるんだ」と言わんばかりのつっけんどんな対応を始め、周囲のタイ人だらけの状況に、私の心は沈んで行くばかり、ため息の連続でした。
そして、数時間掛けて空港から自宅に戻り、我が家の店の中に入った途端、明日から始まる現実の生活が思い出されて、さらに憂鬱になりました。
それから、4日が過ぎましたが、日常生活は何とか取り戻したものの、一人暮らしになった実家の母の事が心配で、そのくせ何も出来ない自分がもどかしく、そんな中で、店に訪れる客の態度にイライラが募り、何となく毎日沈んでしまう毎日です。
そのため、ブログの更新も遅れがちになっているのですが、次回は日本での束の間の生活を思い出して、もう少し明るい内容の記事にしたいと思います。
予定していた約三週間はあっという間に過ぎ、タイの日常に戻った今では、まさに夢のような三週間でした。
当初は逐一報告するくらいに、ブログをアップしようと思っていたのに、気がつけば慌ただしく過ぎていまい、最初の記事を書いただけで、もうタイに戻って来てしまいました。
日本での詳しい出来事は、また2年前と同じように追々記事にして行くとして、今回は思った事を簡単に書いてみたいと思います。
まず、前回の記事の冒頭で書いた、成田空港に着いたと
きの「日本の係官の対応や、お店の接客態度」への感動に対し、タイに戻ってドンムアン空港(エアアジアはスワンナプーム着ではないので)に着いたときは、入国係官のお姉さんの「やってやってるんだ」と言わんばかりのつっけんどんな対応を始め、周囲のタイ人だらけの状況に、私の心は沈んで行くばかり、ため息の連続でした。
そして、数時間掛けて空港から自宅に戻り、我が家の店の中に入った途端、明日から始まる現実の生活が思い出されて、さらに憂鬱になりました。
それから、4日が過ぎましたが、日常生活は何とか取り戻したものの、一人暮らしになった実家の母の事が心配で、そのくせ何も出来ない自分がもどかしく、そんな中で、店に訪れる客の態度にイライラが募り、何となく毎日沈んでしまう毎日です。
そのため、ブログの更新も遅れがちになっているのですが、次回は日本での束の間の生活を思い出して、もう少し明るい内容の記事にしたいと思います。
タグ :日本帰国
2015年04月20日
久々の日本です。
前回からだいぶ間が開いてしまいましたが、タイはソンクラーンの真っただ中だった4月14日の午後18時過ぎに、無事再び日本の地に降りる事が出来ました。
エアアジアは正直言って、コメントでアドバイス頂いた通り、本当に エアバスと言う表現がふさわしい乗り心地でした。
普段慣れた飛行機の機内サービスが無い分、タイの騒音を無くしたツアーバスに乗っているような、もしくは日本の車内販売付きの特急列車に乗っているような錯覚を覚えた気がします。
まず最初に、成田空港での入国審査の係員の方に、涙が出そうな位の感動を覚えました。
別に知人であるはずもないのに、すごく懐かしい感じがして、見ず知らずの係官の方に熱い眼差しで見つめてしまった気がします。
自分がいかに日本人との接触に飢えていたのかを思い知りました。
それからはもう、検疫の案内の係員、荷物検査の係員の方にも、その態度や振る舞いにいちいち感激してしまう始末…。
そして、入国ゲートから出た後も、お腹を空かせた子供に食べ物を…と立ち寄ったショップでの売り子さんの対応に、また感動…。
ホテルの送迎バスの運転手の対応にまた感動…と、日本に着くなり感動の嵐でした。
その後、無事にチェックインを済ませ、成田空港付近のホテルで一晩過ごし、翌朝には成田を出発して、とりあえず、長女が日本風の建物を見たいと言うので、今や日本観光のタイ人の聖地と言われる浅草に寄ってみました。
最初、特にタイ人には会わないな…と思っていたのですが、気がついたら、いつの間にか周囲からタイ語が聞こえて来ていたのですが、普段日本語よりもタイ語に慣れてしまっている私は、最初それがタイ語だと気がつきませんでした。
普通に理解できる会話が聞こえて来るのですが、脳がここが日本だとは認識しているので、周囲のタイ人が話しているのがタイ語なのか日本語なのか分からない状況になっているのでした。
まあ、すでに一週間経っても、今だに日本語の合間にタイ語が出て来てしまい、完全にちゃんぽん状態で、母と話している時などは、母はその会話の合間に出てくる意味不明な言葉を聞き流してくれるのですが、子供達が聞いていると、横でニヤニヤして見ています。
次回からは、日本での生活を書きたいと思います。
成田空港近くで迎えた第一日目の朝
エアアジアは正直言って、コメントでアドバイス頂いた通り、本当に エアバスと言う表現がふさわしい乗り心地でした。
普段慣れた飛行機の機内サービスが無い分、タイの騒音を無くしたツアーバスに乗っているような、もしくは日本の車内販売付きの特急列車に乗っているような錯覚を覚えた気がします。
まず最初に、成田空港での入国審査の係員の方に、涙が出そうな位の感動を覚えました。
別に知人であるはずもないのに、すごく懐かしい感じがして、見ず知らずの係官の方に熱い眼差しで見つめてしまった気がします。
自分がいかに日本人との接触に飢えていたのかを思い知りました。
それからはもう、検疫の案内の係員、荷物検査の係員の方にも、その態度や振る舞いにいちいち感激してしまう始末…。
そして、入国ゲートから出た後も、お腹を空かせた子供に食べ物を…と立ち寄ったショップでの売り子さんの対応に、また感動…。
ホテルの送迎バスの運転手の対応にまた感動…と、日本に着くなり感動の嵐でした。
その後、無事にチェックインを済ませ、成田空港付近のホテルで一晩過ごし、翌朝には成田を出発して、とりあえず、長女が日本風の建物を見たいと言うので、今や日本観光のタイ人の聖地と言われる浅草に寄ってみました。
最初、特にタイ人には会わないな…と思っていたのですが、気がついたら、いつの間にか周囲からタイ語が聞こえて来ていたのですが、普段日本語よりもタイ語に慣れてしまっている私は、最初それがタイ語だと気がつきませんでした。
普通に理解できる会話が聞こえて来るのですが、脳がここが日本だとは認識しているので、周囲のタイ人が話しているのがタイ語なのか日本語なのか分からない状況になっているのでした。
まあ、すでに一週間経っても、今だに日本語の合間にタイ語が出て来てしまい、完全にちゃんぽん状態で、母と話している時などは、母はその会話の合間に出てくる意味不明な言葉を聞き流してくれるのですが、子供達が聞いていると、横でニヤニヤして見ています。
次回からは、日本での生活を書きたいと思います。
成田空港近くで迎えた第一日目の朝
2015年04月09日
4月の日本は寒い?
いよいよ、出発まで残すところ後一週間を切りました。
4月に入ってからここ数日、「日本に行かせてやるんだから、精を出して働け!」と父親(夫)から言われ続けている子供たちを先導して、毎日毎日店の片付けに明け暮れていたので、本当にいつの間にか…と言う感じです。
夫の言う通り、「行かせてやる」子供たちに仕事を与えるのも目的の一つですが、この出発前の慌ただしい時期、帰国の旅支度の前に、一日中汗にまみれてもしなくてはならない本当の理由は…?
それは留守中の店の営業が少しでも楽になるように、私しか覚えていないような商品を夫の見えるところに数個出して置いたり、商品を探した時に、そこに置いて無い物がどこにあるか分かるように、案内ボードを書いたり…と、すべては夫が店で赤字営業をしないように…と言う、その一点にあるのです。
日本に帰りたいのはもちろんですが、それ以上に留守中の店が心配な私は、ここ数日の「焼け石の上で焼かれているような」、本当に日陰に居ても焼け付くような暑さの中で店内整理をしながらの毎日を送っていました。
そうして迎えた今朝の事です。
いつも通り起きて、朝食の支度を済ませ、店を開けてから、仕事机のところで一息つきながら何気なしに友人のFacebookを見ていました。
すると、千葉に住んでいる方の近況で、「寒いと思ったら、雪が降ってる」との投稿が!
え〜〜っ!!
この時期に雪…?
三島由紀夫の小説のタイトルではないけれど、まさに『春の雪』ですね。
まあ、私が大学に入学した年も、入学式の千葉で4月10日に雪が降ったっけ…なんて事を思い出しましたが、今この焼け付くような暑さのタイに居て、朝から雪が降っているという日本の状況が想像出来ないのでした。
これで、あと数日したら私たちもその地に降り立つのかと思うと、もう緊張も極限に達しています。
この暑さから行くと、普通の4月の陽気でも肌寒く感じるのに、雪が降っているとは…?
まあ、今日行く訳ではないので、あと数日後にはもしかしたら春の陽気が戻って来るかも知れませんが。
ここに来ての寒気のぶり返しで、楽しみにしていた地元にある山頂での桜の開花にどう影響が出るか?
何とか、間に合えばいいのですが…。
まあ、とりあえずは桜の心配より、着て行く服と持って行く荷物の心配をした方が良さそうですね。
一通り店内整理も目処がついたので、明日から、本格的に一時帰国の旅支度を始めるつもりです。
4月に入ってからここ数日、「日本に行かせてやるんだから、精を出して働け!」と父親(夫)から言われ続けている子供たちを先導して、毎日毎日店の片付けに明け暮れていたので、本当にいつの間にか…と言う感じです。
夫の言う通り、「行かせてやる」子供たちに仕事を与えるのも目的の一つですが、この出発前の慌ただしい時期、帰国の旅支度の前に、一日中汗にまみれてもしなくてはならない本当の理由は…?
それは留守中の店の営業が少しでも楽になるように、私しか覚えていないような商品を夫の見えるところに数個出して置いたり、商品を探した時に、そこに置いて無い物がどこにあるか分かるように、案内ボードを書いたり…と、すべては夫が店で赤字営業をしないように…と言う、その一点にあるのです。
日本に帰りたいのはもちろんですが、それ以上に留守中の店が心配な私は、ここ数日の「焼け石の上で焼かれているような」、本当に日陰に居ても焼け付くような暑さの中で店内整理をしながらの毎日を送っていました。
そうして迎えた今朝の事です。
いつも通り起きて、朝食の支度を済ませ、店を開けてから、仕事机のところで一息つきながら何気なしに友人のFacebookを見ていました。
すると、千葉に住んでいる方の近況で、「寒いと思ったら、雪が降ってる」との投稿が!
え〜〜っ!!
この時期に雪…?
三島由紀夫の小説のタイトルではないけれど、まさに『春の雪』ですね。
まあ、私が大学に入学した年も、入学式の千葉で4月10日に雪が降ったっけ…なんて事を思い出しましたが、今この焼け付くような暑さのタイに居て、朝から雪が降っているという日本の状況が想像出来ないのでした。
これで、あと数日したら私たちもその地に降り立つのかと思うと、もう緊張も極限に達しています。
この暑さから行くと、普通の4月の陽気でも肌寒く感じるのに、雪が降っているとは…?
まあ、今日行く訳ではないので、あと数日後にはもしかしたら春の陽気が戻って来るかも知れませんが。
ここに来ての寒気のぶり返しで、楽しみにしていた地元にある山頂での桜の開花にどう影響が出るか?
何とか、間に合えばいいのですが…。
まあ、とりあえずは桜の心配より、着て行く服と持って行く荷物の心配をした方が良さそうですね。
一通り店内整理も目処がついたので、明日から、本格的に一時帰国の旅支度を始めるつもりです。
2015年04月05日
国際免許証、再取得完了。
先日、前回の記事の中のコメントで指摘頂いた、タイ国際免許証の再取得に行ってきました。
まず、本来はこれが基本的に「タイ人のための海外用免許証」だと言う基本前提を理解する必要があったのです。
すでに2年前に取得した経験があるものの、普通の人より更に記憶喪失気味の私は、そういう必要書類などもメモして置かないと、新しい事が入って来るたびに順番に忘れてしまうのです。
そのため、今回も「必要書類は何だったっけ…?」とボケていたため、隣に居合わせた長女に頼んで、ネットで調べてもらいました。
1、タイの現行の運転免許証。
2、パスポートの写真、氏名のページのコピー1部。
(念のため、パスポートの滞在許可が載っているページのコピーも添付)
3、写真(縦横2インチ)2枚。(服装に注意!2年前私自身は外出着だと思っていたTシャツで撮った写真を持って行ったらNGで、撮り直しで後日改めて申請し直しでした。理由は「マイスパープ(礼を欠く服装だから?…だそうです。)」)
4、住所を証明する書類。(タイ人の場合は免許の裏面に記入されている住所でOK。)
と、これで、今回はコピーも家で撮って完璧に用意したつもりだったのですが…。
これは、あくまでタイ人向けの書類だったそうで、私のような「外国人」は、4、の住所を証明するのが免許ではダメで、別に住所を証明する書類が必要なんだとか…。
何だか、難癖をつけられているだけのような気がしなくも無かったのですが、ここでゴネで印象を悪くしても、相手はタイのお役所様なので、私には百害有って一利無し…。
一応、免許証の裏面を見せて、「自分はこれで住所の証明になると思ってたんですが…。」と気持ち無駄な抗議をしてみたものの、お役人のお姉様に「ああ、それはあなたが外国人だからよ。タイ人だったらそれでやってあげるんだけど、あなたが外国人だから、市役所で住所証明を発行してもらってから来なさい。」
と、抗議も虚しくサラッと拒否されたのでした。
と、ここで2年前なら、「ちぇっ、今日はもう嫌になったから、後日気を取り直したら出直そう…。」と、半分ヤケになって、もう取らなくてもいいや…くらいの気持ちになっていたのですが、今回は少し図太くなったのか、「そうか、そっちがその気なら、意地でも今日中に取得してやる!」と別の意味でヤケになって、そのまま車を飛ばして30分。
陸運局のある県中心部から30km離れた自宅に戻り、急いで予め持っていた外国人用戸籍謄本をコピー(最初から持って行けば良かったのですが、免許で済むと高をくくっていたので。)して、そのままとんぼ返りで、往復一時間足らずで陸運局まで戻りました。
そして、その日は長女の卒業式のため、長女を送るため早めに着いていたので、この往復一時間を入れても、午前11時頃には申請が終わり、午後2時に受け取りを指定されて、午後まで買い物で時間を潰し、午後2時過ぎに無事新しい国際免許証を受領しました。
皆様にご心配頂いた、国際免許証の不正はもちろん行いませんでした。
左が2年前に取得した免許証。右が今年改めて取得した免許証。
まだ、3を5に直せば…なんて思ってしまうのは、発想がタイ人化した証拠なんでしょうね。
2年前に「マイスパープ!」と却下され、後日撮り直したときとまったく同じ白シャツで、今年も撮影しました。
この白シャツは、この2年間、この写真撮影のために2回着用したきりです。(普段は仕事着なので、絶対に着ない。)
2年前撮ったときも写真の規定サイズが2インチなのは同じですが、撮った人の感覚で今回は全体的に小さめに写ってますが、問題ありません。
写真の枠のサイズが合っていれば構わないようです。こういうアバウトなところが、さすがタイのお役所。
実は、写真の撮り方のせいだけではなく、本人もこの2年間の努力で少しサイズダウンしました。
とは言え、肝心の写真の中の対象の大きさがすでに違っているので、あまり分かりませんが…。
まず、本来はこれが基本的に「タイ人のための海外用免許証」だと言う基本前提を理解する必要があったのです。
すでに2年前に取得した経験があるものの、普通の人より更に記憶喪失気味の私は、そういう必要書類などもメモして置かないと、新しい事が入って来るたびに順番に忘れてしまうのです。
そのため、今回も「必要書類は何だったっけ…?」とボケていたため、隣に居合わせた長女に頼んで、ネットで調べてもらいました。
1、タイの現行の運転免許証。
2、パスポートの写真、氏名のページのコピー1部。
(念のため、パスポートの滞在許可が載っているページのコピーも添付)
3、写真(縦横2インチ)2枚。(服装に注意!2年前私自身は外出着だと思っていたTシャツで撮った写真を持って行ったらNGで、撮り直しで後日改めて申請し直しでした。理由は「マイスパープ(礼を欠く服装だから?…だそうです。)」)
4、住所を証明する書類。(タイ人の場合は免許の裏面に記入されている住所でOK。)
と、これで、今回はコピーも家で撮って完璧に用意したつもりだったのですが…。
これは、あくまでタイ人向けの書類だったそうで、私のような「外国人」は、4、の住所を証明するのが免許ではダメで、別に住所を証明する書類が必要なんだとか…。
何だか、難癖をつけられているだけのような気がしなくも無かったのですが、ここでゴネで印象を悪くしても、相手はタイのお役所様なので、私には百害有って一利無し…。
一応、免許証の裏面を見せて、「自分はこれで住所の証明になると思ってたんですが…。」と気持ち無駄な抗議をしてみたものの、お役人のお姉様に「ああ、それはあなたが外国人だからよ。タイ人だったらそれでやってあげるんだけど、あなたが外国人だから、市役所で住所証明を発行してもらってから来なさい。」
と、抗議も虚しくサラッと拒否されたのでした。
と、ここで2年前なら、「ちぇっ、今日はもう嫌になったから、後日気を取り直したら出直そう…。」と、半分ヤケになって、もう取らなくてもいいや…くらいの気持ちになっていたのですが、今回は少し図太くなったのか、「そうか、そっちがその気なら、意地でも今日中に取得してやる!」と別の意味でヤケになって、そのまま車を飛ばして30分。
陸運局のある県中心部から30km離れた自宅に戻り、急いで予め持っていた外国人用戸籍謄本をコピー(最初から持って行けば良かったのですが、免許で済むと高をくくっていたので。)して、そのままとんぼ返りで、往復一時間足らずで陸運局まで戻りました。
そして、その日は長女の卒業式のため、長女を送るため早めに着いていたので、この往復一時間を入れても、午前11時頃には申請が終わり、午後2時に受け取りを指定されて、午後まで買い物で時間を潰し、午後2時過ぎに無事新しい国際免許証を受領しました。
皆様にご心配頂いた、国際免許証の不正はもちろん行いませんでした。
左が2年前に取得した免許証。右が今年改めて取得した免許証。
まだ、3を5に直せば…なんて思ってしまうのは、発想がタイ人化した証拠なんでしょうね。
2年前に「マイスパープ!」と却下され、後日撮り直したときとまったく同じ白シャツで、今年も撮影しました。
この白シャツは、この2年間、この写真撮影のために2回着用したきりです。(普段は仕事着なので、絶対に着ない。)
2年前撮ったときも写真の規定サイズが2インチなのは同じですが、撮った人の感覚で今回は全体的に小さめに写ってますが、問題ありません。
写真の枠のサイズが合っていれば構わないようです。こういうアバウトなところが、さすがタイのお役所。
実は、写真の撮り方のせいだけではなく、本人もこの2年間の努力で少しサイズダウンしました。
とは言え、肝心の写真の中の対象の大きさがすでに違っているので、あまり分かりませんが…。